ほしの残響



2022年に発行したコピー本の再録です

 放課後の教室は、昼間より少しだけ広く感じる。
 窓の外では、夕焼けに染まった雲がゆっくり流れていた。吹奏楽部の音が遠くから聞こえてきて、誰かが廊下を走る足音が響いて、そしてまた静かになる。
 星乃一歌は、自分の机に頬杖をつきながら、ノートの端に五線譜を書いていた。
 新曲。
 そう呼ぶには、まだ何も形になっていない。
 メロディは少しだけ浮かんでいる。でも、それをどう繋げればいいのかわからない。言葉も、音も、胸の奥で絡まってしまっていた。
「全然だめだ」
 鉛筆を置いて、小さく息を吐く。
 文化祭ライブまで、あと二週間。
 Leo/needのみんなはそれぞれ準備を進めているのに、自分だけ立ち止まっている気がした。
 咲希は楽しそうにステージ演出の話をしていた。穂波はスケジュール表を作ってくれて、志歩は新しいアレンジのアイデアをいくつも出してくれている。
 なのに、自分は――。
「一歌?」
 不意に声がして、一歌は顔を上げた。
 教室の入り口に立っていたのは、見慣れた少女だった。
 長いツインテール。透き通るような瞳。どこか現実離れした空気。
「ミク……」
 初音ミクは小さく笑って、教室へ入ってくる。
「まだ残ってたんだね」
「うん。ちょっと曲考えてて」
 ミクは一歌の隣まで来ると、机の上のノートを覗き込んだ。
 書きかけのコード進行。
 途中で消された歌詞。
 何度も書き直された跡。
「悩んでる?」
 一歌は苦笑する。
「なんか、ちゃんとしたものを作라なきゃって思えば思うほど、わかんなくなってきて」
「ちゃんとしたもの?」
「みんなが楽しみにしてくれてるし、文化祭ライブだし。今のLeo/needをちゃんと見せられる曲にしたくて」
 口にした瞬間、自分でも少し肩に力が入りすぎている気がした。
 ミクは静かに窓の外を見る。
「一歌は、どういう曲を歌いたいの?」
「え?」
「みんなにどう見せたいかじゃなくて。一歌自身は、どんな歌を歌いたい?」
 一歌は答えに詰まった。
 考えていなかったわけじゃない。
 でも、“誰かのため”ばかり考えていた気がする。
 文化祭に来てくれる人たち。
 Leo/needのメンバー。
 聞いてくれるみんな。
 もちろん、それは大事だ。
 だけど。
「……わからない」
 一歌は正直に言った。
 ミクは笑わなかった。
「じゃあ、探しに行こうか」
「探しに?」
「うん」
 ミクが手を差し出す。
 その瞬間、教室の景色がゆっくり溶けていった。

 ***

 気づくと、一歌は見慣れた場所に立っていた。
 星が広がる世界。
 夜空と水面の境界が曖昧な、不思議なセカイ。
「……ここ」
「一歌の想いに近い場所、かな」
 ミクは少し先を歩いていく。
 水面に映る星が、歩くたびに揺れた。
「ねえ、一歌」
「うん?」
「歌って、なんのためにあると思う?」
 唐突な質問だった。
 一歌は考える。
「……誰かに気持ちを届けるため、とか?」
「うん。それもあるね」
 ミクは振り返る。
「でも、言葉にできない気持ちを、自分で見つけるためでもあると思うんだ」
 その言葉に、一歌は少しだけ目を見開いた。
 言葉にできない気持ち。
 それはまさに今、自分の中にあるものだった。
「一歌は、ちゃんと歌おうとしすぎてるのかも」
「ちゃんと……」
「うん。正解の歌を作ろうとしてる」
 ミクは星空を見上げた。
「でもね、最初から正解だった歌なんて、きっとないよ」
 静かな声だった。
「不安だったり、迷ったり、間違えたりしながら、それでも歌いたいって思った気持ちが、少しずつ歌になるんじゃないかな」
 一歌は黙って聞いていた。
 水面を吹き抜ける風が、髪を揺らす。
「……私」
 一歌はぽつりと呟く。
「みんなと離れちゃったとき、もう戻れないかもって思ってた」
 セカイに出会う前。
 幼馴染だった四人は、少しずつすれ違っていた。
 話せなくなって。
 距離ができて。
 どうしたらいいかわからなくなって。
「でも、また一緒に音楽ができて、本当に嬉しかったんだ」
 一歌は拳を握る。
「だから、今度はちゃんと繋ぎ止めたいって思ってる。みんなとの今を」
 ミクは優しく頷いた。
「その気持ち、すごく大事だと思う」
「でも、それをどう歌えばいいのかわからない」
「じゃあ、わからないまま歌ってみたら?」
「え?」
「不安でも、迷っててもいいんだよ」
 ミクは微笑む。
「完璧じゃなくても、今の一歌の歌なら、きっと届くから」
 その瞬間。
 一歌の中で、何かが少しだけほどけた気がした。

 ***

 気づけば、教室に戻っていた。
 夕焼けはすっかり薄れて、窓の外には夜が広がっている。
 一歌はノートを見下ろした。
 白紙に近かったページ。
 でも今は、不思議と怖くなかった。
「……今の私の歌、か」
 鉛筆を握る。
 最初に浮かんだのは、放課後の教室の匂いだった。
 窓から入る風。
 みんなで帰った道。
 ライブ前の緊張。
 笑い声。
 不安。
 嬉しさ。
 全部、今の自分の中にある。
 一歌はゆっくり音を書き始めた。
 最初の一音。
 そこから、少しずつメロディが繋がっていく。
 完璧じゃない。
 でも、確かに自分の音だった。
 翌日の部室に、咲希の明るい声が響く。
「できたー!」
「新曲、めっちゃいいじゃん!」
「うん。すごく一歌らしい」
 穂波も嬉しそうに微笑む。
 志歩は楽譜を見ながら、小さく頷いた。
「前より肩の力抜けてる感じする」
「……そうかな」
「うん。そのほうがいいと思う」
 一歌は少し照れくさくなって笑った。
 みんなで音を合わせる。
 ギター。
 ベース。
 ドラム。
 歌声。
 少しずつ重なって、一つの音になる。
 一歌は歌いながら思った。
 不安がなくなったわけじゃない。
 ライブが怖くないわけでもない。
 きっとこれからも、迷うことはたくさんある。
 それでも。
 今、自分は歌いたいと思っている。
 その気持ちがある限り、何度でも前に進める気がした。

 ***

 文化祭当日。
 ステージ袖は、独特の緊張感に包まれていた。
 観客のざわめきが聞こえる。
 照明の熱。
 機材の音。
 開演前の空気。
 一歌は深呼吸した。
「緊張してる?」
 隣で咲希が笑う。
「してるかな」
「私も!」
「威張って言うことじゃないでしょ」
 志歩が呆れたように言って、穂波がくすっと笑った。
 そのやり取りだけで、少し肩の力が抜ける。
 ステージスタッフが合図を送る。
 もうすぐ始まる。
 一歌はそっと客席の向こうを見る。
 そして、ほんの一瞬だけ。
 舞台袖の暗ガリに、ミクの姿が見えた気がした。
 白い光の中で、静かに笑っている。
「……頑張るよ、ミク」
 一歌は小さく呟いた。
「ん? どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
 そして、前を向く。
 ステージへ踏み出した瞬間、眩しいライトが視界を満たした。
 歓声が響く。
 胸が高鳴る。
 一歌はマイクを握った。
 完璧じゃなくていい。
 今の自分の歌を、届ければいい。
 その気持ちと一緒に、一歌は最初の音を鳴らした。
 
 ***

 ライブが終わったあと。
 帰宅した一歌は、制服のままベッドに倒れ込んだ。
「……疲れた……」
 文化祭ライブは無事に終わった。
 達成感もある。
 反省点もいっぱいある。
 でも何より、ちゃんと歌い切れたという感覚が胸に残っていた。
 一歌は枕元に置いていたスマホを手に取る。
 通知欄には、咲希たちからのメッセージが並んでいた。
『今日最高だった!』
『動画あとで送るねー!』
『お疲れ』

 一歌は小さく笑う。
 それから、なんとなく音楽アプリを開いた。
 おすすめ欄に並ぶ、初音ミクの曲たち。
「ミク……」
 ぽつりと名前を呼ぶ。
 画面の中のミクは、いつも通り笑っていた。
 ライブ前、舞台袖で見た姿を思い出す。
 あれは幻だったのかもしれない。
 でも。
 一歌はイヤホンを耳につけ、適当に一曲再生した。
 静かなイントロが流れ出す。
『お疲れさま、一歌』
「え」
 一歌は飛び起きた。
 聞き間違いかと思った。
 でも、イヤホンの向こうからもう一度声がする。
『今日、すごくいい歌だったよ』
「ミク!?」
 スマホ画面のミクが、いたずらっぽく笑っていた。
 一歌はしばらく言葉を失う。
「え、なんで!? これどうなってるの!?」
『ふふ。ちょっとだけ、だよ』
「ちょっとだけって……」
 一歌は思わず額を押さえた。
 でも、不思議と嫌じゃなかった。
 むしろ胸の奥がじんわり温かくなる。
『一歌、ちゃんと届いてたね』
 一歌は小さく頷く。
「まだ全然うまくいかないところもあるけど」
『それでも歌いたいって思ったんでしょ?』
「……思った」
『なら、大丈夫』
 優しい声だった。
 一歌はベッドに座り直し、スマホを胸の前で抱える。
「ねえ、ミク」
『なに?』
「これからも、また悩むと思う」
『うん』
「歌えなくなる日とか、来るかもしれない」
 少しの沈黙。
 それから、ミクは柔らかく笑った。
『その時は、また一緒に探そう?』
 一歌は目を細める。
「……うん」
 窓の外では、夜風がカーテンを揺라していた。
 スマホの画面の中で、ミクが静かにこちらを見る。
 遠い存在のはずなのに、今はすぐ隣にいるみたいだった。
『これからも一歌の歌、楽しみにしてるね』
 一歌は少し笑って、イヤホンの音量を上げた。
 ミクの歌声が、夜の部屋に溶けていく。
 胸の奥には、確かな音が残っていた。
 それはまだ小さくて、未完成で。
 だけど確かに、未来へ続いていく音だった。

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